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つぶやきコラムG 2001.1.1 皆様、明けましておめでとうございます。 |
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つぶやきコラムH 2001.2.1 新しい年になったなあ、と思ったらもう2月。同じような毎日を淡々と過ごしているうちに、時間はどんどん経ってしまいます。 それでも「同じような」というのがポイントで、本当に全く同じ日というのは有り得ないのですから面白い。「同じような」毎日の中に きらりと光る嬉しい事、心に残る楽しい会話、ささやかな感動、小さな考察…たくさんの生きた気持ちが綴られ積み重なって行くのです。 さて、先日、今年のお年玉くじ付き年賀葉書の当選発表がありました。昔は調べる事すらしなかった私ですが、ここ何年かは鼻息も荒く 一枚一枚丁寧に調べ尽くしています。しかしながら毎年結果はほぼ同じ。今年も切手シートが2枚当たっただけでした。今までに切手 シート以外のものは当たった事がありません。頂く賀状の枚数は結構多いと思うのですが、何も当たらない年もあります。 私は昔からくじ運ゼロの女です。福引き、くじ引き、あみだくじ、懸賞と今までの人生でくじと名の付くものにはおよそ縁がないようです。 はじめから当たるわけが無いと思っているので、宝くじも買ったことがありませんし、商店街の福引では20回も引いて20個のティッシュ
を持ちかえった事もあるくらいです。それでも懸賞などはまめに応募している方だと思います。しかしこれもほとんど当たった事なしです。 何かあっと驚くようなものが当たったらこの場を借りて華々しくご報告させて頂きます。いつになることやらおいしいお菓子とお茶をお供に気長に待つことに しましょうか。 |
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つぶやきコラムI2001.3.10 「三月はものの始まろうとする月、動き出そうとする月、つまり気鋭の月といえる」と幸田文は著書「季節のかたみ」の中で言っています。 新学期や新生活など新しい事の始まりは4月という感じもするけれど、良く考えれば3月というのはそれら新しい事へ向かう前の状況が一段落する時期ですから
3月こそものが始まる月だというのは頷ける気がします。 本物の春は冬の風にまぎれてもうすぐそこまで来ているに違いありません。 のんびりゆっくり春を待ちながら、おいしいお菓子とお茶でほっと一息しませんか? |
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つぶやきコラムJ 2001.4 お花見こそまだまだ遠い遠野ですが、それなりに春らしい気候の日々が訪れています。我が家には小さい男の子がいますから、 少しでも暖かい日には散歩に出かけます。(実際はどんなに寒くとも彼は飛び出して行きますが)まだ少し冷たい風が吹いている町を、
お日様の光があたるところだけを見つめてふらふらとさまよっていると、冬の間は静かだった猫や犬の元気な姿を見かけました。 穏やかな春の一日、ちょっぴりノスタルジックな思いに浸りながら、おいしいお菓子とお茶でほっと一息しませんか? |
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つぶやきコラムK 2001.5 春の雨の一日は、なんだか肌寒くて部屋の中も暗くなりがちです。すっかり春気分だった気持ちもくじかれて、しとしと降り続く雨をうらめしく思っていたのです。
お店にいらしたお客様や業者さんとも自然と天気の話しになります。この雨の中、スクーターで配達をしてくれた方がいらっしゃいました。「雨の中、大変でしたね。」と声をかけると
「ええ、でも恵みの雨ですから!」と笑顔で返され、はっとしました。そういえばこのところ、いいお天気ではなかったけれど雨も降っていなかったなあと思い当たりました。 マイナス思考の一日も、おいしいお菓子とお茶でほっと一息、発想の転換ゲームはいかがですか? |
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つぶやきコラム13 2001.6 先日、実家の仙台に帰った時のことです。久しぶりに、置いていった卒業アルバムや手紙類に目を通していたら、小学4年生の時の日記が出てきました。
思春期の頃の日記は、独り善がりで自分勝手、自分の心の動きを見つめてばかりいる内容なのでとても読み返す気にはなれません。日記自体どこにいったのやら、
人に読まれたら本当に恥ずかしいので早く処分しなければならない代物です。 どのページを見ても、よくもこんなに笑ったり怒ったり、感心したり悔しがったり 出来たものだと半ばあきれながらも、子供だったわたしの輝くような日々の充実感を感じ、なぜだかほっとした気持ちになりました。 大人になってこんなに輝く気持ちはもうなくしてしまったと思っていたけれど、なくしたのではなく忘れていただけだと気付いたからです。昔子供だった頃にちゃんと経験していたのですから。 ・・・なんてうっとりしていた私に母の声。「あなたって小さい頃から全然変わらないのねぇ。」そ、そんなことはないと思うのですが。 時には昔の日記を見て、子供だった頃の自分に会いに行きませんか?おいしいお菓子とお茶を忘れずに!
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つぶやきコラムM 2001.7 周囲を山に囲まれた遠野は、盆地のせいで冬は寒く夏は暑いと言われます。 冷茶でも、アイスコーヒーでも温かいお茶でも。たまにはゆっくりとていねいにお茶を入れて、おいしいお菓子をお供に、ほっと一息気持ちを涼しくしませんか?
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つぶやきコラムN 2001.9.20 本格的な秋の深まりが感じられるこの頃、遠野市立博物館を訪れてきました。遠野に住んで3年目、博物館に行ったのは実はこれが初めてなのです。博物館と隣接している図書館には毎週本を借りに行くのに、博物館にはなかなか行く機会がないままに3年も経っていました。 身近な人の死というものは、どんな時代にも人間が受ける最大の試練ではないかと思います。ましてや働き盛りや、幼くして、若くして死の世界へ旅立っていった人たちへの残された者の想いは、とても想像の及ぶところではありません。しかし、到底乗り越えられるものではない苦しみの中、亡くなった人たちがあの世できっと幸せに過ごしていると思うことで、何とか気持ちを整理しようとした、その想いが供養絵額なのでしょう。
今回遠野の人々の死生観に触れ、改めて自分の住む町の知らなかった文化に触れ、共感するという貴重な経験ができたことを嬉しく思います。これまでの私の遠野の知識は、ガイドブックに載っている情報以下であり、「昔話」や「民話」や「曲がりや」といった遠野の代表的な事柄だけを「遠野」だと思っていたのではないかな、と恥ずかしくなりました。折角縁あって住んでいる町です。これからはもっと好奇心の目をもって、その隠された素晴らしい文化を知りたいと思った一日でした。 それぞれの人にそれぞれの秋、「芸術の秋」「スポーツの秋」「読書の秋」「食欲の秋」、おいしいお茶とおいしいお菓子をお供にそれぞれの秋を極めてみませんか? |
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つぶやきコラムO この秋、遠野に居ながらにして、素晴らしいアメリカの音楽と触れ合えるチャンスが巡ってきた。 とても豊かな気持ちで帰宅した、その次の朝はもっと驚くことがあった。昨日のシンガーが店に立っている!歌っていない時の彼らはとても気さくで親しみやすかったのだが、私は昨夜の興奮がフラッシュバックしてドキドキしてしまった。私は昨夜自分がいかに感動したかという上に記したようなことを感情たっぷりに述べた。かったのだが、いかんせん言葉の壁は大きかった。何よりも明がらすがうまく説明出来ない。『フライしているクロウなのだ。サンシャインなのだ。ナッツとセサミとライスパウダーなのだ。』と(多分相手にはこんな感じで伝わったはずである)まくしたてて何とか理解を得た。(と思う)日本茶を飲みながら一緒に写真を撮ったりして楽しいひとときはあっという間に過ぎた。 彼らが帰った後には、己の英語力アップの必要性に打ちひしがれてしまったが、これを機会に英語でも明がらすを説明できるようになりたいという新しい課題も生まれたのであった。 11月3日のチケットも手に入れたので、今はそれをとても楽しみにしている。 時には自分を開放して全く別の世界に置いてやることは、豊かな気持ちと新しい自分に会える行為である。それは私にとって音楽鑑賞であり、映画鑑賞であり、最も手近には読書である。おいしいお茶とお菓子ももしかしたらそのひとつかもしれない。
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つぶやきコラムP よく「読書の秋」というが、私は冬であろうが春であろうが、読書をしないと落ち着かない。いつもまわりに「なんか読むもの」がないと落ち着かない。 思えば物心ついたときから私はそんな子供だった。学校の図書室で本を借りると、家に帰るまで待てない。いつも歩きながら本を読んでは、電柱や駐車中のトラックに激突していた。家に何とか帰り着くとやっと腰を落ち着けて本格的に読み始める。すると今度は誰が話し掛けても、大きな物音がしても何も聞こえなくなってしまう。
小学生の頃は伝記物にはまり、随分そろえた気もするが、物語も大好きでよく読んだものだ。。 私にとって本を読むということは、物語の中の世界に入り込みその世界を自由に旅する自分を味わうこと、つまり日常とは違う世界に生きるワクワクするような冒険の旅だったのである。物語の中で私は大泥棒だったり、子鬼だったり、どこか外国の女の子だったりした。あらゆる可能性とチャンスと夢とハプニングは、「女の子らしくない」と周囲にいつも言われていた私をそんな次元ではない別の世界へ導いてくれるものだった。
怖がりだった私は夜になると暗いのが怖くて、怖い夢を見るのが怖くて、なかなか寝付かれないことが多かった。だから寝る前は毎日「世界の面白い話」や「こども落語」「まんがことわざ大辞典」を読んで楽しいことだけ考えた。
家族もよく本を読む人達だったので、休日には必ず本屋に行った。みんなであれこれ本を買い込んで、家に帰ると存分に読みふける。そういえば家族に「あれを読んだ方がいい」とかアドバイスされることはなかった。自分で選んできた本は何でも読むことが出来たし、まず買って貰えたと記憶している。
そのうち思春期を迎え、自分が何者なのか解らない、何がわからないのかも解らない混乱の時期を迎えたが、その頃はサルトルや太宰治、梶井基次郎などちょっと昔の難しい本を読むことで、その時期特有の心のアンバランスを補っていたように思う。「赤と黒」なんてさっぱり意味も解らなかったが「難しい本を読む自分」というスタイルが気に入っていたのだ。
大人になった今、じっくり長い時間本を読むことが難しくはなったが、相変わらず私は本ばかり読んでいる。物語よりもエッセイや人生史が多いが、やはりひとたびページをめくれば、瞬時に日常の何もかもを忘れどっぷりとその世界に没頭することは変わらない。新聞や広告チラシでも同様である。 こんなに本を読んで何かいいことがあるかというと、「ないかもしれないし、あるかもしれない」といったところだろうか。ヤサイジュースのように「鉄分やビタミン」がとれる訳でもないし、運動のように「筋肉」がついて健康的になる訳でもない。もちろん多く読んだからご褒美がもらえる訳でもない。 でも本を開けば、いつでも違う世界に飛び込んでいける。ワクワクするような気持ちやせつない気持ち、考え込んでしまうこともあるし、泣いてしまうこともある。その人の人生について深く考え、自分の生き方を見つめ、かと思うと面白さにお腹をかかえて笑っている。そのことは私にとって生きるための「栄養」だし「筋肉」である。本があって生活があるのではなく、生活の傍に本がある。いつまでもそんな生活を過ごしたいと願っている。 |